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ガイド研修:和歌山城

2010/6/23

一昨日(21日)今年2度目の遠出ガイド研修で「和歌山城」に出かけました。
当日は梅雨真っ最中でしたが雨にも合わず予定通りの研修が出来ました。
ガイドは「和歌山ガイド部」の方が私達をガイドして下さり、和歌山城内の展示物や歴史のお話しを伺いました。

「和歌山城」は
天正13年(1585)、豊臣秀長は兄豊臣秀吉の命を受けて和歌山城の築城にとりかかった。しかし秀長は和歌山城の完成を見ずに大和郡山にあり、その後和歌山の地へ戻ることは無かった。

翌天正14年(1586)に、秀長の家臣である桑山重晴が城代として3万石を領し和歌山城に入場した。桑山氏は14年間の在城期間に和歌山城の本丸部分を中心に築城をすすめた。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで軍功のあった浅野幸長が37万6千石を領して和歌山城の城主となり、桑山氏は大和布施に移封された。

浅野氏は19年間の在任中に、二の丸部分を整備させたり、一橋門を大手にするなどその後の基礎となる築城工事を次々に行った。

元和5年(1619)、浅野氏は安芸国広島へ移付され、徳川家康の第十子徳川頼宣が55万5千石を領して入場した。

以後和歌山城は、御三家紀伊徳川家の居城となり「南海の鎮」として、幕府の西国支配の拠点という新たな役割を担うことになる。

徳川頼宣(※)の入城の際には銀二千貫が支給され、入城直後から和歌山城の大規模な整備工事や城下町の拡張整備が実施された。これらの政策はその後250年間続く和歌山の繁栄の基礎となった。

※紀州徳川家(紀州家・紀州藩)初代城主で徳川家康の第十子。
徳川御三家は、単に御三家(ごさんけ)ともいい、徳川氏のうち徳川将軍家(将軍家)に次ぐ地位の次の3家のこと。
尾張徳川家(尾張家・尾張藩)…始祖は徳川義直(徳川家康の9男)
紀州徳川家(紀州家・紀州藩)…始祖は徳川頼宣(徳川家康の10男)
水戸徳川家(水戸家・水戸藩)…始祖は徳川頼房(徳川家康の11男)

御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に分立した徳川氏の一族。
徳川将軍家に後嗣がない際に将軍の後継者を提供する役割を担う。
田安徳川家(田安家)…始祖は徳川宗武(8代将軍徳川吉宗の次男)
一橋徳川家(一橋家)…始祖は徳川宗尹(8代将軍徳川吉宗の四男)
清水徳川家(清水家)…始祖は徳川重好(9代将軍徳川家重の次男)

【閑話】
和歌山城(城主:徳川頼宣)が江戸城で岸和田城(城主:岡部宣勝)とあった際に「君が和泉(岸和田)に居られるのは、我らの抑えのためだと聞き及んでいるが」と問われたので「宣勝」は「大身のあなたを抑えるなどとんでもないことです。せいぜい足の裏に飯粒が付いたくらいのことでしょう」と答えたという。足の裏に付いた飯粒は気持ちが悪いものです。
「宣勝」は岸和田藩を飯粒に例えながらも、小藩の意地を通したものでこれには「頼宣」も唖然としたと伝えられています。
※明治時代作「世徳私纂」より :さん【×纂】集めてそろえる。編集する。
※紀州徳川家55万5千石に対し和泉岸和田藩は5万3千石と1/10

和歌山城 ←クリックすると拡大します

上記画像は石垣の高さです。高さは写真の通り超高いです!
さすが徳川御三家55万5千石のお城です。

本丸は標高48.9mの虎伏山(海上から三田形態が虎の伏した姿に見える事から虎伏山と呼ばれる)の頂きに位置し、東部の本丸御殿と西部の天守郭(曲輪)で構成されています。
※岸和田城は同様に猪が伏した姿に見える事から「猪伏山」と呼ばれます。

江戸初期の天守は、弘化3年(1846の落雷により焼失し、4年後の嘉永3年(1850)に再建されたが、昭和20年(1945)に戦火を蒙り、再び焼失してしまった。その後、和歌山城再建を望む市民の熱意によって、昭和33年(1958)に鉄筋コンクリートの天守が復元されました。
※岸和田城は昭和29年に再建されています。

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